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きょう聖(ねこミミ)

きょう聖(ねこミミ)

元祖デマ雑誌・月刊ペン

2006年9月19日 19:34:27

 いまだにネットの片隅で、形を変えながら池田名誉会長の“スキャンダル事件”として語られる月刊ペン事件(昭和51年~)。
 この「デマ」を流したのが「月刊ペン」編集長の「隈部大蔵」。デマによる名誉毀損で「刑事告訴」され、当時、最高額の「罰金刑」を命じられた「負け犬」だw

『創価新報』2006年4月15日付

青年部座談会 10

元祖デマ雑誌「月刊ペン」事件の顛末
裁判史上異例の編集長 隈部大蔵に最高額の罰金刑で決着


嫉妬と金儲けで捏造したデマ
当時の状況
1.政治的思惑→公明党が野党第2党に躍進
2.売り上げ狙い→月刊ペンは数億円もの負債
3.宗教上の妬み→池田会長が先見の民間外交


竹内青年部長
佐藤男子部長
高木男子部書記長
原田男子部教学部長
森山学生部長


 竹内 学会は本年も、大勝利で「5・3」を迎えることができる。
 青年部は結成55周年。各地で盛大に「池田門下」の集いを開催する。

 佐藤 偉大な師匠のもと、全力で使命に生き抜く青春。これほどの喜びはない。大成功させようではないか。

 原田 社会における学会の存在は、ますます重みを増している。批判的だった人も、学会の真実を認識しはじめている。

 高木 ある識者も先日、こう語っていた。
 「以前は学会に対して、あまりに無意識な風評がまかり通っていた。
 しかし池田名誉会長は、いかに非難や中傷を浴びようと、評価されることなど求めず、信念と正義の闘争を貫かれた。そして学会を隆々と発展させた。
 名誉会長の偉大な勝利に感服しています」
と絶賛していた。

 佐藤 我々の眼前には、広宣流布の大道が広がっている。
 今こそ「拡大の好機」だ。学会の正義を、語りに語ろうじゃないか。

 「根拠がない」

 森山 ところで前回、前々回は、元祖デマ男・藤原弘達の話だった。各方面から反響があった。

 竹内 当時を知る、壮年、婦人からの声も多い。
 関西のある婦人は「青年部が学会の闘争の歴史を学んでいる。正義の声を上げている。実に頼もしい。嬉しい」と、お便りをくださった。

 高木 先日『ウソをズバッと斬る!』第三文明社)という本が発刊された。通称「ウソズバ」(笑い)。
 これまでの学会を狙ったデマを一刀両断に斬る本だ。

 原田 日蓮仏法の魂は「破折精神」だ。
 男子部は縦横無尽に正義の言論を展開する。先陣を切って戦う!

 佐藤 学会中傷のデマといえば「月刊ペン」事件。「ウソズバ」にも出ているが、デマ雑誌がデッチ上げたデマの典型だ。

 森山 総会屋絡みの雑誌「月刊ペン」が昭和51年3、4月号に、池田会長(当時)に対する事実無根のデマ記事を掲載した事件だ。

 竹内 この雑誌は、昭和60年に事実上の廃刊。発行元の「月刊ペン社」も昭和62年4月、6億2300万円もの負債を抱えて破産した。

 原田 学会側は、直ちにデマを書いた編集長の隈部大蔵を刑事告訴。隈部は逮捕され、25日間も拘留された。

 竹内 その後、裁判では最終的に「罰金20万円」の有罪判決が下された。これは、当時の名誉棄損の罰金刑では最高額だ。

 高木 それほど明らかにウソ八百、事実無根のデマだった。
 判決は、隈部のデマを厳しく断罪している。
 「十分な根拠を持たないまま結論のみを先行」
 「情報等の確度を検討するうえで必要な詰めを欠き、一方的なものを余にも容易に受け容れた」等とバッサリだ。

 マスコミの面汚し

 佐藤 当時、マスコミが起こした大不祥事として知れ渡った。
 だいたい、編集長自身がデマ記事で「逮捕」「有罪」になったデマだよ。まったく異例中の異例だ。

 森山 当時の新聞を見た。みなが「マスコミの面汚しだ」と激怒していた。
 「平然と、うわさだけで書きまくるようなスキャンダル・ジャーナリズムなどは、ジャーナリズムの名に値しない。まず真実を求めること、それに節度を加えて、初めて社会の信頼が得られる」(読売新聞)等々、厳しく糾弾していた。

 原田 新聞記者も語っていた。
 「私が読んでみても、ずいぶんあくどい書き方をしている」「最高額の罰金刑でも、まだ軽すぎる」と怒り切っていた。

 竹内 同業者からも非難轟々だ。どれだけ悪辣なデマだったか。

 「札付き」の男

 高木 そもそも、なぜ「月刊ペン」がデマを書き殴ったのか。いくつかの理由がある。
 まず第一に、デマの裏には「政治的な思惑」があった。

 佐藤 動かぬ証拠がある。
 「月刊ペン」が創刊されたのは、昭和43年。実は創刊当初は、学会をまともに評価していた。

 森山 僕も調べてみた。たとえば昭和44年8月号。公明党について特集しているが、一流の識者の寄稿を掲載していた。
 「(公明党は)人間尊重を土台に置いた大衆政党たらんとしている」(評論家・藤島宇内氏)
 「国民政党としての組織と政策の強化は、さらに一般大衆の共感を呼ぶに相違ない」(政治評論家・戸川猪佐武氏)
 「人間性を満足させ、貧困を追放する庶民本位の政治を確立させることが彼らの理想」(法学者・木下広居氏)等とある。

 高木 どれも正当な評論じゃないか。

 竹内 ところが昭和49年、隈部が月刊ペンに入って急変した。ちょうど隈部が編集長になった昭和51年1月号から、学会中傷のデマ記事を毎号、連載しはじめた。

 原田 そもそも隈部というのは「陸軍中野学校」という、旧日本軍のスパイ養成学校の出身者だ。
 月刊ペンに入る前から、公安関係者が経営していた探偵会社などと密接に連携を取りながら、反学会の謀略を巡らせていた。「札付き」の男だった。

 佐藤 隈部は偽名を使って、中傷本まで出していた。
 昭和43年2月に「隅田洋」というペンネーム、同年9月には「千田真澄」、翌44年12月にも「福島泰照」と名乗って、デタラメ本を書いていた。

 竹内 当時は、ちょうど池田先生が歴史的な「沖縄返還提言」(昭和42年8月)「日中国交正常化提言」(翌43年9月)を発表された時期だ。

 森山 超タカ派的な政治信条を持っていた隈部は、これに激しく反発した。それでインチキ本を出したんだ。

 高木 さらに昭和50年7月には、学会と日本共産党の「創共協定」が公表された。

 佐藤 これも「宗教と共産主義の共存」という、文明史的意義から結ばれたものだった。池田先生の傑出した先見がなし得た、歴史的協定だった。

 原田 ところが隈部のような男には、その意義の深さ、大きさも、まったく分からない。
 浅はかにも「学会が共産党と組んだ」と思い込んで、大慌てでデマを書き殴った。

 竹内 愚かなやつだ。学会を中傷する連中は、みな呆れるほど底が浅い。すぐデマに飛びつく。

 森山 最近じゃ、民主党代議士だった永田寿康。「住民移動のデマ」で騒いだ半年後に、あの「偽メール事件」を起こした。
 さんざんに逃げ回り、党までボロボロにした揚げ句、惨めに議員を辞めた。

 佐藤 民主党も大迷惑だっただろうな。

 「選挙狙い」

 原田 とにかく隈部が「政治的な思惑」で、デマを書いたのは明々白々だった。
 判決にも明確にある。
 「被告人(=隈部)は、昭和50年8月ころ、当時表面化した創価学会と日本共産党との間のいわゆる創共協定に対し、教義上の立場から疑問をつのらせ『月刊ペン』誌に創価学会批判記事の掲載を企画」とハッキリと認定している。

 高木 実は、ほかならぬ隈部自身も白状している。
 「この企画の直接のきっかけになったのは、その前年の7月に発表された『創共10年協定』だった」「週刊新潮」昭和56年4月30日号)と明言している。

 森山 しかも、公明党は昭和44年の衆院選で野党第2党に躍進していた。
 昭和51年は、年末に衆議院の任期満了を控えていた。いつ衆院の解散、総選挙があっても、おかしくない年だった。

 佐藤 隈部は、その時期を狙って、デマを流したんだ。明確に「選挙狙い」のデマだった。

 返本率80%

 竹内 隈部の狙いは、ほかにもあった。ずばり「金儲け」だ。

 原田 「月刊ペン」がどういう雑誌だったかを調べれば、一目瞭然だ。
 当時「月刊ペン」の発行部数は、わずか16000部。しかも約80%もの「返本率」だった。

 高木 大赤字じゃないか。全然、売れずに火の車だったんだな。

 佐藤 現に当時、出版元の月刊ペン社は数億円の負債を抱えていた。有名な事実だ。

 森山 ところが、だ。学会中傷のデマを載せた、昭和51年3月、4月号は、約3万部と大幅に部数を増やした。

 竹内 今は学会のことを書いても、みんな「またデマか」と見抜いている。
 だが、当時は学会のことを書けば、売れた。隈部は、そこに目をつけて、ウソ八百のデマを書き殴ったんだ。

 原田 判決も「金儲けが狙いだった」と明確に認定している。
 「売上増進というような経済目的の存在をうかがわせる事情がある」と厳しく指摘している。

 正体をひた隠す

 高木 隈部の“犯行動機”は、ほかにもある。
 「宗教上の嫉妬」だ。実は、隈部は「大乗教団」という新興宗教の最高幹部だった。

 佐藤 この事実を隈部は、法廷で、ひた隠していた。
 裁判官が「学会に興味を持ったのは、個人的なものか。あるいは宗教的なものか」と問いただした。
 隈部は「特定の宗教に入っているわけではない」などと、ヌケヌケと言っていた。

 森山 この大ウソつきが!

 竹内 新興宗教の幹部だとバレたら「学会に嫉妬して書いた」と、底が割れる。だから必死で隠していたんだよ。

 原田 当時、学会は池田先生の指揮のもと大発展していた。
 昭和45年には、750万世帯を達成。
 先生は、トインビー博士との対談(昭和47年)を皮切りに世界を結ぶ民間外交を本格的に開始されていた。

 高木 とくに「月刊ペン」がデマ記事を企画した直前。昭和49年3月から翌年5月までに、池田先生は実に中国を3度、ソ連を2度、米国を2度にわたって訪問。
 周恩来総理やコスイギン首相、キッシンジャー国務長官らと会見し、米中ソ関係を緩和させる対話を展開された。

 佐藤 池田先生が、どれだけ世界的、歴史的な偉業を残されてきたか。時とともに、ますます輝きを増している。
 先日も、関西の著名な作家が語っていた。
 「池田名誉会長が展開される人間交流こそ、不滅の国交です。日中の交流に果たされた功績だけを見ても、その偉大さに敬服します」と明言していた。

 森山 隈部が“オレは法華経の最高権威だ”と自称していた。
 学会に異常な敵愾心を持っていたという。

 竹内 だが当然、教義でも、実践でも、学会には全くかなわない。
 そこでデマでも何でも、学会に嫌がらせをしようと企んだんだ。

 高木 結果は当然、大失敗。隈部は最高額の罰金刑を受けて、歴史に永遠に汚名を残した。

 原田 インドの詩聖タゴールは「他人を中傷して自己満足にひたるのは、弱者の気晴らし」と喝破している。
 隈部のデマなど、まさに「負け犬の遠吠え」だ。

 佐藤 「月刊ペン」のデマの発端は全部、明確だ。
 「政治的な思惑」「金儲け狙い」「宗教上の嫉妬」。この愚劣な動機自体が、学会中傷のデマの典型だ。

 竹内 さらにデマ記事の中身も「いつ」「どこで」「誰が」が、全部デタラメ千万だった。裁判でも片っ端から断罪された。
 これらについては、また語り合おう。



『創価新報』2006年5月3日付

青年部座談会 11

元祖デマ雑誌「月刊ペン」事件の顛末
編集長本人が学会に謝罪
“記事には手落ちがあり、間違いだった”


「ネタ元」「事実無根のデマ」と断言
取材もせず、ガセネタを丸写しした「月刊ペン」
判決“事実調査の粗雑・杜撰さは覆うべくもない”


竹内青年部長
佐藤男子部長
高木男子部書記長
原田男子部教学部長
森山学生部長


 原田 前回は、元祖デマ雑誌「月刊ペン」事件について語り合った。

 森山 総会屋がらみの雑誌「月刊ペン」(すでに廃刊)が昭和51年3、4月号に、事実無根のデマ記事を掲載した事件だ。

 高木 学会側は、デマを書いた編集長の隈部大蔵を刑事告訴。
 隈部は逮捕され、厳正な裁判の結果、罰金20万円の有罪判決が下された。

 佐藤 これは当時、名誉棄損の罰金刑では最高額だ。それほど卑劣なウソ八百であり、悪辣千万のデマだった。

 竹内 デマを見破る一番の急所は「ネタ元」だ。
 最初に言い出したのは誰か。その一点をつけば、一目瞭然だ。

 原田 その通りだ。とくに一部の週刊誌が書き殴ってきた、学会中傷のデマ!
 ほとんどが、ネタ元は極悪ペテン師の山崎正友や乙骨某ら。裁判で何度も断罪されている「札付き」ばかりじゃないか。

 森山 山崎は恐喝事件で懲役3年の実刑。下劣な不倫事件でも断罪。さらに悪辣なデマ事件でも次々に敗訴。
 これまでに裁判で13回も敗北している。

 高木 乙骨も裁判で4度の断罪。前代未聞のデマ男だ。

 佐藤 これがデマの舞台裏だ。
 もう皆が明確に気づいている。「バカな連中だ」と笑っている。

 森山 今じゃ、山崎や乙骨なんて週刊誌さえ、まともに相手にしないじゃないか(笑い)。

 “記事にはするな”

 竹内 あの「月刊ペン」事件も、いかに事実無根のデマだったか。ネタ元をたどれば、明々白々だ。

 原田 デマ記事を書いたのは、編集長の隈部本人だ。しかし、隈部にネタを持ち込んだのは、武井保という男だった。

 森山 当時、マスコミ界では有名だった“情報ゴロ”だ。窃盗、詐欺、恐喝などを繰り返し「前科4犯」と言われていた。

 高木 しかも、だ。武井本人も、松本勝弥という脱会者から、根は葉もない作り話を聞いただけだった。

 佐藤 ほかでもない。松井本人が全部、白状している。ジャーナリストの取材に対して、こう明言していた。
 「火をつけたのは私だ」
 「(武井に)話すには話したが、まさか記事にするとは思わなかった」と答えている(「財界にっぽん」平成17年1月号)。

 森山 しかも松本によると、武井には「根も葉もない話だ」「おもしろ半分の話に過ぎない」と断ったうえで話した。
 さらに「記事にしてはいけない、と何度も忠告した」「裁判になったら勝ち目はないと再三、言った」というんだ。

 竹内 “言い出しっぺ”の男自体が、明確にガセネタと認めていたんだな。

 原田 その正真正銘のガセネタを、有名な「ガセネタ屋」が、隈部のもとに運んだ。誰が、どうみてもインチキじゃないか。

 高木 ところが、だ。なんと隈部は、武井のガセネタを、そのまま書き写して記事にした。
 しかも、学会側に一度も取材せずに書いたんだ。

 佐藤 全部、隈部本人が白状している事実だ。
 隈部は逮捕後、捜査官に「情報は武井から40万円で買った。裏付けは何も取っていない」「武井の身元も確認しなかった」等とはっきりと自白した。

 竹内 さらに裁判でも、隈部は「(記事の内容を)創価学会に一度も確認はしていない」と明言していた。

 森山 まったく異常だ。普通のマスコミ人なら絶対にやらないことだ。

 高木 当然、裁判も厳しく断罪している。
 「本件事実調査の経過を検討するとき、資料・情報等の検討の粗雑・杜撰さ、これらをもとにして認定可能な事実を推論・構築していく過程の荒っぽさは覆うべくもなく(中略)被告人(=隈部)には強く再考を求めなければならない」と指弾している。

 竹内 要するに隈部のデマ記事は、肝心要の事実確認が「粗雑」「杜撰」
 判決でも“完全に欠陥商品だ”と断罪されたわけだ。

 原田 有名な新聞記者も憤慨していた。
 「根拠がまるでないような批判、中傷をする前に、自らの取材に万全を尽くし、そして記事に責任を持つべきではないのか。
 記事は記者の生命であるはずだ」
と書いていた。

 高木 その通りだ。「月刊ペン」のデマ記事が出た当時、良識あるマスコミ人は皆、怒っていた。
 「これほど卑劣千万、インチキ千万なデマは見たことがない。こんなのを野放しにしたら、社会全体が腐る」と憤っていた。

 死人から聞いた!?

 佐藤 当然、学会側は即座に隈部を名誉棄損で告訴した。
 すると隈部は大慌て。血眼になって“ニセ情報”を捏造しはじめた。

 森山 たとえば、こんな大ウソをついた。
 隈部は、デマ記事の「情報源」として、日向鉄城という名前をあげて“昭和54年5月に会って、話を聞いた”などと言い張った。
 ところが、この日向なる男は、なんと昭和50年6月24日に死亡していた。

 高木 法廷で検察側が、この事実を突きつけた途端、隈部は狼狽。何を聞かれても「昭和54年に、2、3回会った」「間違いなく会った」と狂ったように喚くだけだった。

 竹内 バカバカしい。4年も前に死んだ人間に、どうやって会うんだ。ウソも、いい加減にしろ!

 「動かぬ証拠」

 原田 また隈部は「内閣調査室の資料」なる怪しい“証拠”を裁判所に提出。
 “ここに、名誉会長は昭和41年4月6日の午後、箱根の学会施設で酒を飲んでいた、と書いている”などと大騒ぎした。

 佐藤 当然、これも一発で「真っ赤なウソ」だとバレた。
 そもそも昭和41年4月6日、名誉会長は静岡県の大石寺にいた。午前中に到着し、午後には3400人の登山者とともに御開扉。翌日まで静岡におられた。

 原田 当時の聖教新聞にも、写真入りで明確に出ている。
 裁判では検察側が、その「動かぬ証拠」を突きつけた。すると隈部は、言うに事欠いて「聖教の記事は信用出来ない」などと逃げる始末。
 最後は、見かねた裁判長が「3400人もの人がいるのに、記事に作為があるというのですか!」と一喝。またもや大失態を晒した。

 竹内 バカバカしい。だいたい名誉会長は、酒は全く飲まれない。有名な事実だ。
 ほんのちょっとでも取材すれば、分かることじゃないか。

 高木 一事が万事だ。隈部がでっちあげた“情報”は、判決でも片っ端から「事実無根」と断罪された。
 「うわさ程度のもの根拠にし、あるいは十分な根拠を持たないまま結論のみを先行」
 「情報源そのものが明らかでない上、その内容も明確とは言えない」
 「虚構であると考えざるを得ない」
 「これらの情報が真実性を信じるに足る相当の根拠となり得ないことは言うまでもない」
 「裏付けにも欠けており、到底真実性を信じるに足る相当の根拠になり得るものではない」等々、まさに一刀両断だ。

 「偽証工作」も発覚

 森山 要するに隈部は、裁判で何一つ、まともな根拠を示せなかった。
 追いつめられた隈部は、なんと「偽証工作」までやった。

 高木 裁判で係争中の昭和54年9月のことだ。
 隈部は、東京・目黒区の元公明党区議に、金を積んで裁判の「偽証」を頼んでいた。

 佐藤 「毎日新聞」(昭和56年7月28日付)にも大きく出ていた。
 「被告が偽証依頼」「証言すれば謝礼を出すとの話もあり、同被告が『寸志』と記した15万円入りの紙袋を置いていった」等と、大きく報道された。

 竹内 元区議は「そんなウソはつけない」と断った。隈部が置いていった現金やメモなどは全部、裁判所に送りつけた。
 その後「偽証工作」の事実が明らかになったんだ。

 原田 隈部のやつ、さんざんニセ証拠をデッチ上げた揚げ句、ニセ証人まで仕立てようとしたんだな。どこまでも愚劣なやつか。

 高木 だが隈部のインチキは全部、バレて大失敗。その結果が「最高額の罰金刑」で断罪だ。

 佐藤 そもそも隈部本人が明確にデマを認め、学会に対して「詫び状」まで書いていた。

 竹内 その通りだ。昭和52年3月付で明確に謝罪している。
 『月刊ペン』の記事中には、事実の確認に手落ちがあり思いちがいがありました」
 「行過ぎのあったことに対しては、率直に遺憾の意を表明致します」と、ハッキリと書いていた。

 別の記事でも謝罪

 森山 実は隈部が、学会側に刑事告訴されたのは、このデマ記事(「月刊ペン」昭和51年3月、4月号)だけではなかった。
 その直後の6月号にもデマを載せて、当時の北条理事長から名誉棄損で告訴されていた。

 原田 高橋という一般読者からの投稿を載せた記事だ。高橋本人が「月刊ペン」事件の裁判で、明確に証言している。

 佐藤 証言によると、事実はこうだ。
 まず、高橋は原稿料欲しさで学会中傷の記事を原稿用紙15枚ほど書いて「月刊ペン」に送った。
 その後、連絡があり、隈部と会った。
 隈部から“もっと具体的なことを書いて50枚くらいにしてほしい。慈善事業じゃないんだから、売れるものを載せなきゃならない”と言われた。
 そこで指示通り、わざと脚色したり、事実を捏造して膨らませた、というんだ。

 高木 高橋は、なんと自分の学歴や経歴を詐称して売り込んでいた。だが隈部は、経歴も、記事の中身についても、裏付け調査を一切せずに載せた。

 竹内 まったくメチャクチャだな。到底「マスコミ」なんて呼べたものじゃない。やっぱり「元祖デマ雑誌」だ。

 森山 このデマ記事については翌年3月、隈部と高橋が記事の誤りを認めて、明確に謝罪した。
 そこで北条理事長は告訴を取り下げてやったんだ。

 原田 裁判で断罪されたデマだけじゃない。別の記事でも、学会側に謝罪していたんだな。

 佐藤 要するに「月刊ペン」のデマは、一から十まで全部、インチキだ。
 (1)「ネタ元」自体がガセネタ
 (2)裏付け取材も全くせずに掲載
 (3)裁判所に出した証拠も全部デタラメ
 (4)隈部は「偽証工作」まで画策
 (5)ほかのデマ記事でも学会に謝罪

 竹内 これが真相だ。当然のことだが、裁判も明確に決着。先生、学会の正義は完璧に証明された。
 真実は一つ。「正邪」は、歴史に永遠に刻まれた。





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